我々には僅かな時間しか無いのではなく、多くの時間を浪費するのである。人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされない時、畢竟、我々は必然性に強いられ、過ぎゆくと悟らなかった生が既に過ぎ去ってしまったことに否応なく気付かされる。
我々の受ける生が短いのではなく、生を蕩尽(=使い尽くすこと)する、それが真相なのだ。莫大な王家の財といえども、悪しき主人の手に渡れば、たちまち雲散霧消してしまい、どれほど倹しい財といえども、善き管財人の手に託されれば、使い方次第で増えるように、我々の生も、それを整然と斉える者には大きく広がるものなのである。
老人の集まりがあれば、その中の誰かを捕まえて、私はこう言ってやりたい。
「あなたは人間の寿命の究極の年齢に達し、百歳、あるいは、それ以上の年齢ももう間近のご様子。決算のために、さあ、あなたの生涯を振り返ってみられると良い。」
「計算すると、どうなるだろう。
あなたのその生涯のどれだけの時間が債権者に奪われ、
どれだけの時間が愛人に奪われ、
どれだけの時間が庇護者や庇護民(=弱い立場のものを庇って守ること)に奪われ、
どれだけの時間が細君との諍い(=言い争い)や
奴隷の懲戒(=制裁を与えること)や
都中を駆けずり回る役務に奪われたか。」
「自業自得の病もこれに加え、活用されることもなく無駄に過ごした時間もこれに加えてみられると良い。
あなたの手元に残った年数があなたの計算よりも少ないことがお分かりになるはずだ。」
「記憶を辿り、思い出してみられると良い。
いつあなたがしっかりとした計画を持ったことがあったか。
一日があなたの意図した通りに進捗した日が何日あったか。
いつあなたがあなた自身を自由に使うことができたか。
いつあなたの顔つきが普段通りの落ち着きを保っていたか。
いつあなたの心に怯えがなかったか。
これほど長い生涯にあなたが成した働きとは何であったか。
あなたが何を失っているか気づかない間にどれほど多くの人間があなたの生を奪い取ったか。
あなたの生のどれほど多くの時間を詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わりが奪い去ったか。
あなたがその生の中からどれほど僅かな時間しか自分のために残しておかなかったか。」
「あれこれを思い出せば、あなたが今、亡くなるとしても、あなたの死は夭逝(=年が若くて死ぬこと)だと悟られるであろう。」
では、その(生の浪費の)原因はどこにあるのであろう。
誰もが永遠に生き続けられると思っていき、己の儚さが脳裏によぎることもなく、既にどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にも留めないからである。
誰かのために、あるいは何かのために費やされるまさにその日が、あるいは最後の人なるかもしれない状況の中で、あたかも満ち満ちてあり余るかのごとく生を浪費するからである。
人は皆、あたかも死すべき者であるかのように全てを恐れ、あたかも不死のものであるかのように全てを望む。
多くの人間がこう語るのを耳にするであろう。
「五十歳になったらあとは閑居(=世俗を離れ静かに暮らすこと)し、
六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。
だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。
事が自分の割り振り通りに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。
生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養(=少しずつ養い育てること)のための時間として予約しておくことを恥ずかしいと思わないのであろうか。
生を終えねばならない時に至って、生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。僅かな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を生き始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。
いいかね、これは本当のことだ。
人間的な過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのである。
どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。
彼らの生の寸刻たりとも人間的陶冶(=生まれついた性質や才能を鍛え練り上げること)に費やされず、実りに費やされぬ時間はなく、寸刻たりとも他人の支配に委ねられる時間はなかった。
それも至当(=極めて当然で適当なさま)で、時を誰よりも惜しむ時の番人として、自分の時間を交換しても良いと思う価値のあるものは、彼らには何も見出せなかったのである。
彼らには生は十分な長さであった。
しかし、自分の生の多くの時間を人に奪い取られる者が生を不足とするのは理の当然ではないか。また、そうした者たちが自分の損失を自覚しないのは時たまのことだと考える理由はない。
いいかね、君の生の日々に印をつけて仕分けし、精査してみるが良い、と言っているのだ。
君が自分の分として留保しておいた日々が、ごく僅かで、使い物にならないような日々でしかなかったと気付かされるであろう。
念願の儀鉞(=古代ローマで高位公職者の周囲に付き従ったリクトルという役職が捧げ持った棍棒のようなもの。権威の象徴。)を手にした人物がそれを手放したいと願い、繰り言(=同じことを何度も繰り返して言うこと)のようにこう言う。
「いつになれば今年が終わるのだろう」と。
また、別の人物は、その職務を割り当てられるのを大した名誉と考えていた催し物を取り仕切っているが、泣き言を漏らして言うのだ。
「いつになれば、この役目からおさらばできるのか」と。
中央広場中で引っ張りだこで、どこで弁護に立とうと、聞き取れないものが出るほどの大群衆で裁判の場を満たす弁護人はこう言う。
「休暇を取って仕事の手を休められる日はいつのことやら」と。
誰もが現在あるものに倦怠感を覚えて生を先へ先へと急がせ、未来への憧れにあくせくするのである。
だが、時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして、管理する者は、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。
実際、いつか将来のひとときがもたらしてくれるかもしれない楽しみとは、いったい何なのか。
彼(=将来の楽しみを待ち望むだけの者)には全て既知ののものであり、全て既に飽きるまで堪能したものである。
それ以外の未来のことは、望むがまま、時の運に決めさせてやれば良い。
彼の生は既に安全な場所にある。
その生には、付加できるものはあっても、取り去れるものは何一つない。
付加されるものさえ、腹一杯食べて満ち足りてはいるが、何か食べ物があれば、欲しがりはせずとも、腹に入れることはできる。
丁度その余分な食べ物のようなものなのである。
それゆえ、誰かが白髪であるからと言って、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。
彼は長く生きたのではなく、長く居ただけのことなのだ。
実際、どうであろう。
港から出た途端に嵐に逢い、あちこち翻弄された挙句、吹き荒ぶ風が四方八方から代わる代わる吹きつけて、円を描くように同じところをぐるぐる弄ばれ続けた者が長い航海をしたなどと考えられようか。
無論、彼は長い間航海したのではなく、長い間翻弄されたに過ぎないのである。
失った歳月を返してくれる者は誰もおらず、君を再び元の君に戻してくれる者は誰もいない。
人の生涯は、辿り始めた道を辿り、踵を返すことも、歩みを留めることもない。
それは騒がしい物音一つ立てもせず、矢の如き光陰の速さを戒めてもくれない。
生は粛々と流れ行くもの。王の権力を持ってしても、世人の人気を持ってしても、長くすることはできない。生は出発点となったその日から走り出し、そのままに駆け行く。
どこかで回り道をすることもなく、どこかで道草を食うこともない。
その果てにあるものは何か。
君は何かに忙殺され、生は急ぎ足。
やがてそのうち死が訪れ、否応なく、その死とともに君は(永久に)安らわねばならないのだ。
先延ばしは先々のことを約束することで、次の日が来るごとにその一日を奪い去り、今という時を奪い去る。
生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待である。
君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。
君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。
来るべき未来のものは不確実さの中にある。ただちに生きよ。
〜(省略)〜
「なぜぐずぐずしている。なぜじっとしている。汝が掴まなければ、逃げ去るのだ。」と。
「諸々の情念の衝動に対抗するには、繊細さではなく激烈さで、微傷(=ほんのわずかな傷)を与えるのではなく、突撃による正面突破で戦わねばならない。なぜなら、悪徳は罵っているだけでは済まされず、根絶しなければならないからである。」
生は三つの時期に分けられる。
過去、現在、未来である。このうち、我々が過ごしている現在は短く、過ごすであろう未来は不確定であり、過ごした過去は確定している。
過去が確定しているのは、運命が既に支配権を失っているからであり、何人の裁量によっても取り戻せないからである。
その過去を何かに忙殺される人間は見失ってしまう。
また、その暇があるにしても、後悔していることを思い出すのは不快だからである。それゆえ、彼らはうまくいかなかった過去の時に心を向けるのを嫌がり、それをあえて思い出そうとはしない。
しかし、過去という、我々人間に与えられた時間のこの部分は、神聖にして聖別されたものであり、全ての人事を超越し、運命の支配権の及ぶ圏外に置かれ、欠乏にも、恐怖にも、疾病の襲撃にも脅かされることのない時間である。
過去は掻き乱すことも、奪うこともできない。それは永遠で不安のない所有物なのである。
今ある現在は一日一日を言い、その一日も刹那の一瞬から成る。
しかし、過去の日々は、どの日でも、命じれば眼前に到来し、思うがままに、覗き見することも、留めることも可能である。
だが、何かに忙殺される人間には、その暇はない。
自分の生のどの部分をも自由に逍遥(=気ままにぶらぶら歩くこと)できるのは、不安のない平静な精神の特権なのである。
目次
さあ、以上を踏まえ、私はいったい何をしようか?
1.現在を直視し、
2.現在を改善し、
3.未来を志し、
4.現在を激烈に生きる
これに尽きる。
1.現在を直視する
まずは現在を直視する。
現在とは「一日」。これを分解する事で詳細に自分の今を理解することができる。
持論だが一日は8つのパーツへ分解可能である。
①時間:その瞬間、どのように存在しているか。以下②③④⑤⑥から構成される親階層の立ち位置。
②場所:その瞬間、どこに存在しているか。
③人:その瞬間、誰と存在しているか。
④食べ物:その瞬間、何を食べているか。
⑤物:その瞬間、何を持つ/身につけているか。
⑥金、仕事:その瞬間、何を与えているか。
⑦心:その瞬間、何を感じているか。人間の構成要素の一つ。脳が感情を感じている状態。意識の部分。
⑧体:その瞬間、どのような調子か。人間の構成要素の一つ。魂の入れ物。人間活動の根底/前提の部分。
一日を全うするのは「人間」である。つまり、「人間」も分解しておく必要がある。
持論だが、人間は3つのパーツへ分解可能である。
①魂:生物に宿るもの。無意識の部分。
②心:脳が感情を感じている状態。意識の部分。
③体:魂の入れ物。人間活動の根底/前提の部分。
(1)魂・心・体
(2)時間・場所・人・食べ物・物・仕事・心・体
人間の構成要素を踏まえ、一日の構成要素を直視する必要がある。
肝は「魂」である。無意識。魂が日々の中で何かをキャッチする。それに基づき、意識が起きる。
理由なき察知→理由の思考、という順番である。
これは「3.未来を志す」際に必要な前提である。
2.現在を改善もしくは発展する
「人間」を直視し、「一日」を直視した時、脳裏へ無意識に浮かぶ、つまりは魂の声は何を言っているだろうか。
改善、あるいは、発展であろう。
改善とは、マイナスをゼロへ戻す。整えること。
発展とは、ゼロをプラス、プラスを更なるプラスへ増やすこと。成長すること。
私を含め、多くの者は真っ先に改善が浮かぶ。浮かばない者は発展の最中であるか、脳死の幸せ者かである。魂が既に上げている声を、心が殺している。無意識を意識が掻き消している。
手段は一つ。
改善と発展に全力を尽くすのである。
激烈に同時並行しなくては時はただ過ぎて行く。
3.未来を志す
理由なき察知→理由を思考、この順番を踏まえ、「なんかいい」という世界を描く。
具体を並べては想像の範疇で現実は留まってしまう。コンパスの指針となるような微かな光のみでいい。イメージや色、表情、感情、匂いや音、空気、大きく抽象的に掴み取る。
私は「遊」を体現する。
誰がなんと言おうと私が、皆が楽しく笑顔でいる、その世界を私が私自身に対して与える。
4.現在を激烈に生きる
1.2.3と直視をしてきたが、本当は何をしなければいけないか、そんなものは初めからわかっている。
問題は「魂の望む光の方では無く、その他の浪費を続けていること」である。
やるか、やらないか、この1行で事足りる。
行動
①時間
・★★★激烈に早寝早起きする(21:30就寝、5:00起床)早朝時間を散歩、ストレッチ、冷水シャワー、読書、ブログに充てる。起床時間をInstagramのストーリーズに投稿する。他人の目を入れる環境を作り継続する。
・読書とブログへのアウトプットはセットで行う。
②場所
・山、海へ行く。
・個人経営の喫茶店を巡る。
③人
・雑誌「新百姓」を扱う店へ足を運び店主と話す。
④食べ物
・筋トレに必要な3000カロリーを食べ続ける。日々の食事はInstagramのストーリーズに投稿する。他人の目のある環境を作り継続する。
⑥金、仕事
・★★★「2025年で会社員を辞める」。この未来を獲得するために収入源を並行し確保する。YouTube、ブログ、事業等。緩やかにライスワークからライフワークへ移行する。
⑧体
・体重を78kgまで増やし(20kg増)、筋肉/体力/自信を増やす。
私が言えるのはこれだけである。
ただちに生きよう。
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